2015/7/14
高校を卒業し短大を中退してからは、「自分に何が出来るのか」をめちゃくちゃに探していました。なんか面白い事が出来そうだと自分を買いかぶっていたのですが、そう思ってるくせに努力はしていませんでした。2年ほど実家を離れたもののやはり生活できず戻ってきたのですが、そのまま横浜に居るのが辛くて、なんとか此処から抜け出そうとバイト情報誌や雑誌を沢山読んでいました。
或る時、創刊したばかりの『olive』を買いました。確か憧れの職業特集だったと思います。スタイリストだのデザイナーだの、当時の花形の仕事が色々と紹介されていました。私は高校時代に目指したファッション関係には全く才能が無いとわかっていたので、その時は他の分野に目がいきました。それで、どこでどう考え出したのかは謎なのですが、《コピーライター募集》と書かれていた或る会社に面接に行く事にしました。八丁堀という時代劇でしか聞いた事の無い駅に辿り着いて、電話で約束したその会社へ行きました。雑誌には「YAMAHAの船舶などの広告を手掛ける」と書かれてありましたので、大きな会社なんだろうなーとワクワクしていたら、縦に細長く古い建物で「あれっ、此処なのか」とビックリしたのを覚えています。中には沢山の若い人がズラッと机に座って働いていました。名前を名乗ると「え!若い!」という声が奥から聞こえてきました。
やがて面接担当の方が現れて「何故、コピーライターになりたいの?」と聞いてきました。私の本当の答えは《何でもいいから横浜を出たい、どうせならカッコいい仕事がしたい》だったのですが、「コピーライターにずっと前からなりたかったんです」と思い切り嘘をつきました。その途端、奥にいた数名の方が「おーー!!」という茶化したような驚いたような声をあげました。「じゃ、早速だけれど、このコピーをお願いします。時間は○分ね」と仰って、私に大きな写真と白紙の画用紙と鉛筆を渡して去って行きました。私は窓際の大きなソファーに座り、やはり大きなテーブルの上にその写真を載せて考え込んでしまいました。渡された写真には、海とヨットとカモメだけが写っていたのです。
決められた数十分の間に私が何をしたかと言うと、鉛筆を使って、海やヨットやカモメの絵を画用紙に一所懸命描いたのでした。コピーとは、コピー機の様に描くことかと思っていたのです。当たり前ですがコピー機の様に描けるはずなどなく、時間が来て担当者が私のところまでやってきました。
担当の方はそれをパッと見て、どの様に思ったかはわかりません。とにかく少しの間沈黙がありました。「これ、、、何?」と聞かれたのか「これって、、、」と呟いたかはわかりませんが、しばらくしてからその方は皆の元に戻っていきました。奥からは何か音の無い、静かなような、うるさいような、どよめきのようなものがあって、私は咄嗟に「何かトンデモナイことをしでかした」とわかりました。
しばらくすると、そこで一番偉い方がやってきました。その人は担当の方とは違って、なんだか優しく穏やかでした。「君はコピーって知ってる?」私は今更ですが、正直に「いいえ」と答えました。するとその方は、分厚い本を何冊も持ってきて「これは私が書いた本です。私は宣伝会議というところで教えています。良かったら、家に帰ってこれを読んで勉強してくださいね。全部あなたに差し上げます」と仰ってくれました。私は自分が何をやらかしたのか、早く知りたいのと怖ろしいのとで、いただいた重い本が入った紙袋を抱えながら、ペコペコお辞儀をしてすごい勢いで帰りました。以上が、数十年前のエピソードなのですが、最近この話に続きが出来ました。
下の娘のママ友達とPTAを通じて仲良くなったのですが、彼女が「若い頃に銀座の広告代理店で働いてたんだ」と教えてくれたのです。それで思わず「広告といえばねー」と、先程の話を少し打ち明けたのです。その次に会った時に、彼女が「あの話、何処かで聞いたことあるなあと思ってたんだけど、思い出した。飲み会のたびによく出てくる女の子の話だ!」と彼女は言ったのです。
「嘘!!」「や、嘘じゃないよ。全く同じ話だもん。あの子は今頃どうしてるんだろう?あんな肝の据わった子はいなかったなーとよく話してたよ」
彼女はその先も教えてくれました。「それでね、その話が出るたびに最後は『あの子を不採用にしなきゃ良かった。あの子ならちゃんと育ててあげたら大きな仕事取ってきたかもなあ。面白い事になったのになあー』で、締めくくられるんだよ」
思い出すたびに寝込みそうになり、八丁堀駅もそれ以来二度と近づかなかったのに、こんな後日談を私に届けてくれるのですから、人生は不思議だなあと思います。