2013/5/7
ひとが生きていくために、食べたり飲んだり寝たりする他にも何かがあるのだとすれば、二十代前半の私は、間違いなく「典ちゃん」を摂取していた。典ちゃんは典子といって、私よりひとつ年下の女の子だ。私たちは同じ放送作家事務所の同期だった。
代表の南川さんは業界の大ベテランで、しかも現場主義。「何も知らなくともまず現場に入りなさい。そこから努力して企画書を出し続けてチャンスをつかんで」という人で、実際、南川さん自ら信じられないほど次々と仕事をとって来て、それもとんでもなく大きな仕事からとんでもなく小さな仕事までゴチャゴチャだった。そんな訳で、私たちも入社後一回も顔を合わせることなく、すぐにそれぞれの場所に配属された。
典ちゃんはフジテレビの映画『子猫物語』のスタッフとして、北海道のムツゴロウ王国で子猫たちを育てることになり、私は大手制作会社で、当時革新的と言われた日曜生放送の番組に関わっていた。といっても、右も左もわからぬ女の子がすぐに役立つはずがなく、ADさんの更にアシスタントのような、業界最下層といった感じのひたすら使いっ走りの毎日だった。
そんなバタバタがちょっと落ち着いたゴールデンウィークを過ぎた頃に、事務所に一枚のハガキが届いた。北海道にいる典ちゃんからだった。
そこには、映画で使う子猫のお世話のために、毎日大量のノミに刺される苦しみと、室蘭出身の典ちゃんが一旗揚げようとせっかく上京してきたのに、なぜまたこっちで子猫たちを育てなきゃならないのかという恨みつらみがびっしりと書いてあって、それだけでなく「やっぱり北海道はいいとこだ。空気も食事もおいしい、馬も私になついてる。毎朝叫んで呼び寄せてる」とか、とにかく自由なお便りだった。
事務所ではため息とあきれ顔がひろがっていたのだけど、私は読みながら大笑いしていっぺんで大好きになった。「この子がこっちに戻って来たら、絶対に友達になろう!」と決めて、実際戻って来てからは毎日のように一緒に過ごした。
典ちゃんは、北海道の次は四ツ谷にある大手の制作会社に出向となった。私が出向していたところは六本木にあったので、お互いに行きやすい赤坂見附や、典ちゃんが住む新宿で、遅くまで何時間も喋り続けた。