2015/10/4
たった今、小田急線の新百合ケ丘のパン屋さんでこれを書いています。ここに来たのは2010年の3月以来ですから、5年ぶりになります。母が通っていた病院の検診センターがこの駅にあったので、カフェ好きの私に釣られて、このお店を二人の待ち合わせ場所にしたのでした。(私は東京から、母は横浜から)
母はとても単純で、良いことがあれば全ての景色が素敵に見えるし、嫌なことがあると全てが悲しく見えてしまう人でした。ここを訪れた時は希望に満ち溢れていたので、「楽しいね。美味しいね。」と喜んで、パンを食べてコーヒーを飲んでいたのでした。
翌年違う病気で母は亡くなりましたが、その後はもうこのお店に足を運ばなくなってしまいました。電車で1時間もかからないので思い立てばすぐに来れるのですが、元気な母を思い出すのが辛かったのです。いつかいつかと思って夢にまで出てきたのですが、5年経ってやっと区切りをつけにやってきました。こんな私を見て「貴女ってほんとーに時間かかるのねえ。どってことないじゃない!」と、母は言うでしょうね。可笑しそうに笑うかも知れません。そしていつものお馴染みのセリフで、「貴女って、本当にコーヒーが好きねえ」としみじみ言うと思います。
私の人生のプロセスはとてもゆっくりです。自分以外の人間を信じる、ということに半世紀以上もかかっています。いい加減あきらめてしまえばよいのだけれど、なぜかこのことだけはあきらめが悪いのです。だから宇宙は、私とタロット王国を出会わせてくれたのかも知れません。
聖杯探求の道はとても困難です。聖杯とは、聖なる心、一点の曇りもない心と生き方のことです。物語の中では、何も見つからないまま亡くなってしまう人が多いのです。もちろん比喩なのですが「そうそう簡単には辿り着けないよ」と、聖杯の物語は私に囁いてくれます。
聖なる心、一点の曇りもない心、と書くと、まるで何の汚れもない人生のように誤解されそうですが、そうではないのです。そんなこと言ったら、私なんて一歩もこの道を歩けません。人間なので過ちがあって当たり前だし、真っ暗な道を通ってきて当たり前なのです。かえってそういう道を通過していないと、人は「自分はちゃんと歩んでいる」と思い込んでしまって、それで道を外れてしまうらしいです。いかに人間が弱いか、愚かかを(自分を含めて)思い知ったあと、そうでない道を探すのが聖杯探求なのだそうです。
そしてもう一つ、この道は《絶対的結婚関係》となる片割れがいるらしいのですが、、、私にはよくわかりません。恋愛や結婚とは違うらしいのですが、、、(宇宙は全て、関係性の中で成り立っているからだそうです)。私は、私が辿ってきた道を本当に必要とする誰かのために生きてきたのだと思っています。それは野心のためではなく、今までとは違う人生を生きるために必要だと思うのです。最近は、もう出会ったのかも知れないなあと思い始めています。どうしてそう感じるかというと、、、タロットはカップの2のナビをやめたからです。
レオン先生の本によると、この世でたった一人の人と出会うことはとても悲しいことだそうです(この世は荒地だから)。このことについてはまた別の機会に、のんびり書こうと思います。