2016/5/25
中学3年生の時のお話。体育の授業の中に女子だけがやる創作ダンスというものがありました。音もダンスも全て自分たちで創るのです。自分たちで創りさえすれば、とくに制限のない自由な授業でした。ダンスのメンバーはクラス内で好きに組んで良いのですが、私のクラスは仲間意識の強い女の子たちが数名いて、微妙にぎくしゃくしたクラスでした。それで、今で言うところのコミュ障の女の子二人がどこのグループにも入れてもらえず、強い女の子たちの策略によって私のグループに入ることになりました。仲良しの女の子5人とコミュ障の女の子2人の7人という大所帯になりました。私は策略された悔しさと仲間はずれをつくることの許せなさもあって「がんばろう」と一念発起したのです。
どういう経緯だったのか忘れましたが、音づくりも振り付けも私が担当することになって、私は毎日放課後まで頭を悩ませていました。家のレコードを片っ端から聴いてもピンとくるものがなく、結局、音楽室のレコードをいろいろ聴かせてもらうことにしました。その中でひときわ素晴らしく、最初に針を落とした瞬間に空間がパッと変わるレコードがありました。それが冨田勲氏のレコードだったのです。
ダンボールのようなそっけないジャケットに、タイトルも『冨田勲の世界』といったような学生向けに作ったレコードだったと記憶しています。ライナーノーツは文字が多くて、このような音楽になった理由とか、学生に向けての難しいことがびっしりと書いてありました。私は「これしかない!」という感じで早速借りることにして、家で音を作り始めました。レコードをかけて、それをラジカセで録音して、さらにメトロノームの音を組み合わせてやっと出来たものは、その頃の私たちにぴったりなモヤモヤとした不思議なものでした。
タイトルは『思春期』と決めました。最初の数分はメトロノームを遅い音でかけて、その時の踊りは6人が1人ずつ向こう側の世界へ行きます。私はダークな存在で、1人だけこちら側に残っているのでした。メトロノームに合わせて、最後の1人の君(きみ)ちゃんが向こう側へ辿り着いた途端に、メトロノームの音はとても速くなり、私は見えない蜘蛛の糸で、君ちゃんをこちら側に引き戻すのです。もがきながらクルクル回る君ちゃんは、私のところまで絡めとられるのですが、すぐ近くまで来た瞬間、向こう側の5人が全員合わせた動きでドンと私を掌で突き飛ばすと(実際は5メートルくらい離れている)その力で私の糸は切れて、自由になった君ちゃんはジャンプしながら向こうの世界へ走って行くのです。そのあと暗転して、数十秒経ったあと、冨田勲の音楽が流れるのでした。
真っ暗いステージのなか、細くスポットライトが当たって、私は1人でその音に合わせた動きをするのですが、(見えない)糸を必死で手繰って自分なりの光を見出そうとするのです。空から一筋の銀の光が差し込んで、その光を頼りにしているという思いで踊っていました。そのあと7人が静かな音のなかで、1人ずつ踊りながら自分のポジションに落ち着き(イメージは座標軸)最後は全員が曲線状に並び、端から一人ずつ共鳴してゆくという、なんだかすごく抽象的なダンスなのですが、学校のなかで一番の賞をいただいて、後日学校を代表して何処かであらためて踊りました。その時は、自分たちでツルツルした銀色の布を縫って、貫頭衣のようなものを被って踊ったのです。私はその頃すでに太り始めていたので、そんなものを着たら余計にぽっちゃり見えて、自分でも「ダメだこりゃ」って感じだったのですが、同性や後輩たちには評判が良く「創作ダンスの森下さん」と呼ばれていました。君ちゃんはとても可愛かったので、男子にも大人気でした。
今でも時々あのダンスのことを考えるのですが、何が素晴らしかったかというと、ただただ冨田勲氏の音楽が素晴らしかったのです。一瞬で空間をぱあっと変えて、観ている人たちをシーンと静かにさせてしまう力があったなあと、そんなことを思い出しています。