年をとると直近のことは忘れちゃうのに昔のことはハッキリと思い出す傾向があるらしいです。私は元々そんな感じなので、さらにそうなっちゃうんでしょうか。困ったもんです。
このブログでも昔のことをずいぶん書いていますが、記憶じゃなくて実際にはどんなことを書いてるのかしら?と時々思います。が、実家を整理した時に段ボール箱に詰めたまま天袋にぎゅうぎゅうに押し込んでいるので、もう二度と見れないかも知れません。←重くて降ろせない。
私が若い頃にはインターネットはなかったし当然SNSはなかったから、心の内を綴ったものは自分しか見れませんでした(しかも日記帳は鍵付きのものまで売ってました!)。自分しか見れないから好きなようにのびのびと表現できたのです。もちろん大人になってから読むとナンジャコリャー!!なものですが、磨く前の宝石も眠っていたりするのです。
表現なんて土台恥ずかしさの塊です。突き詰めていくことによって湧き上がってくる、世界や周囲に対する怒りや大人に対する不満や自分に絶望することや。振れ幅も大きいし、感受性全開だしで、痛々しいものばかりです。けれども生きた表現なんて痛々しさがつきものなのではないでしょうか。
今の時代は簡単に周りに見せることが出来ます。国の壁も世代の壁も越えられますが、その反面、いとも簡単に他人から傷つけられます。そんなの関係ない、知ったこっちゃないという強いハートの人ならいざ知らず、大概の若い人なら深く傷つきますし、そうならないためにあらかじめ自分で突っ込んでおくなんて捻れた表現も生まれてしまいます。
個性でない限りはなるべく捻れない方がいいと私は思っています。傷つけられない方が良いとも思っています。残念ながら、昔も今も変わらず意地悪な人はいっぱいいるので「若いね」「甘いね」「荒いね」「痛々しいね」と散々な言葉を浴びせかけます。痛々しさ100%だった私が今もこうして懲りずに書き続けられるのは、未熟な面を差し引いても「面白いね!」って褒めてくれた人たちのおかげなのです。その真っ直ぐな救いの腕があったからこそ、未熟さを抱えたまま進んでゆけたのだと思います。
未熟さ痛々しさを怖がらず、自分ツッコミもしなくて済むように、若き表現者達が守られてゆきますように、端っこからいつも願っています。