絹糸のような雨がふる。碧は今、何処に住み、何をしているのだろうーー。こんな日に、やっぱり碧のことを想いだしてしまう。
腕を組み楽しげに語らう若い男女や、子供みたいにはしゃいでる女の子のグループ。暮れなずむ黄昏の街に見かける光景だ。「いいねーー、若いって明るくて自由で、私も、もう一度やってみたいな、あんなのーー」私は碧に声をかけた。「とんでもない!あの連中のどこが明るいっていうの、頭の天辺から爪の先まで、真蒼孤独で、みんな演じているだけじゃん」二十歳そこそこの娘にしては、ひどく乱暴だけど、ま、これも碧らしい。「ふーん、そんなもんなのーー」私は暮色濃い街に、再び目を向けた。碧は八歳年下の友人である。もちろん、私には家庭も子供もあるのだがーー。
碧との出逢いは、塾の生徒を一日中募集して歩く、冬場のアルバイト先だった。碧は私と同じアルバイトにきていたが、初めの頃は私にとって碧は苦手な相手だった。彼女はバーバリーのコートを洗濯機で丸洗いし、皺だらけのものを羽織っており、煙草をふかしながら歩くのだった。それが、やけに様になっていたから、やりきれなかった。
私は、意識して彼女との行動を避けてきた。やがて一ヶ月が過ぎ、私は家庭の事情でアルバイトをやめることになった。アルバイト最後の日、せめて精一杯前向きに仕事をしようと張り切った。その日も絹糸のような雨が朝からふっていた。交差点を渡りかけた時、「ねェ、ちょっとポストまでつき合ってよ」と、聞き覚えのある声である。振り向くと碧が有無を言わさぬ眼差しで私を見ていた。確か、彼女のテリトリーは、私とは正反対のはずなのだがーー。疑いとは裏腹に、私は妙に上気した声でつき合うことを返事した。彼女は足早に歩いて行く。しかし、どこにもポストは見当たらなかった。彼女にもポストを捜す意志はみとめられなかった。
やがて、とある喫茶店に着くと、碧は肩でドアーを押して入った。観葉植物がやけに多い喫茶店である。碧と私は前にアメリカンを置いて向いあった。大きなカップの底が白く見える頃、碧が私にことのほか興味を持っていることが分かった。碧にいわせると、私が家庭の主婦でありながら、どこか世間ずれせず幼児性を残していることから、らしかった。
自分の過去を振り返ってみると、それも肯ける。存在を拒否し続けの連続だったし、あらゆる摩擦を避けてきた。それは怯懦で曖昧な生きざまだと詰(なじ)られても仕方のないものだった。碧は、そうした人間の内面を鋭く窺い見抜くことができるようだった。
その日、碧の口からは何度も”若者の文化”という言葉がとび出した。彼女にいわすと、私が生きてきた時代には、学生運動もビートルズもあったじゃあないかーー。そんな時代に私が、世の中の風潮に何もかかわらず、流されて生きてきたことが碧を苛立たせているようだった。自分だったら、ヘルメットぐらいはかぶったといいたげだった。これからの時代、燃えられる若者の文化は、もうないのだーーと碧はいう。私は意地悪く「でも結婚があるじゃあないの」といった。「やめてよ!!」碧は顔をそむけ口元を歪め、不潔な言葉を聞いた時のような不快な顔をした。
従順で逆らうことのない、弱い動物に十分な愛を注ぎ、自分の身を削ってでもーーと思うのだが、愛と葛藤の世界の素晴らしいことも知りながら、二人はその葛藤の世界を避けて生きてきすぎたように思える。人が人を愛し続けねばならぬというのは、愛の全くない世界と同じように過酷なことかも知れぬ。私には、自分の中につくられた空洞を、どうして埋めて行けばよいのかわからない。こうして、八時間あまりの間に、アメリカン二杯で浸出された二人の心の内は、形こそ違え全く同じ色彩のものだった。店を出ると外はすっかり暗がりの世界であった。碧は私と別れたあとの時を埋めるべく、電話ボックスにスルリと身をかくした。
その後、碧と私は一年程しっかりと付き合うことになった。同じ色をした二つのガラスの破片(かけら)は、会う度に溶け合い、やがて透明なクリスタル状となった。すっかり溶け合ってしまうと、そこから新しく生まれるものもなく、再び無気力の世界だけが残された。それに二人が気付き、どの世界にもないクリスタルを、お互いの形見として離別した。
それから一年が過ぎた。絹糸のような雨の中に佇んで、交差点の信号をぼんやり眺めていた。そんな時、ふと碧に声をかけられてみたいものだと思った。クリスタルを壊してしまえば、出合いの前に戻れるかも知れないーーと。
男のように強がり、猫のように撓(しな)やかで傷つきやすい”碧”
今日も絹糸のような雨がふり続く。空ろな空洞を埋めることのない灰色の雨がーー。
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これは日記に時々書いている「三島のおねえさん」が、或る雑誌に投稿したものです。1985年の雑誌です。掲載されて数年経ってから、私の元に郵送してくださいました。「碧」という女性は、私のこと。生意気でトゲトゲしていて傲慢。読むだに恥ずかしい、二十歳の私が、生々しく描かれています。
ここに記されている通り、十代の終わり頃から私は迷いに迷って、迷走、暴走して、軌道修正もままならぬ酷い日々を送っていました。走り続けていればどこかに衝突して、突然この生は終わってくれるだろう、早く終わらせたいものだと思っていました。ところがいまだにこうして続いている。人生とは本当に不思議なものです。
三島のおねえさんがいなかったら、私はここには辿り着けなかった、いま居る場所へと歩いて来れなかったと、つくづくと感じています。三島のおねえさんについては、別の機会にゆっくりと書こうと思います。
2009/4/14