東北の小さな村や海辺の町で育った母は、お金が無くても楽しいことを見つけるのが上手でした。
長屋時代は毎日のように保土ヶ谷公園に寄って、図鑑を片手に二人で色々探しました。図鑑は植物と昆虫と鳥の3冊で、植物と昆虫はさらにミニ版も持っていたのです。
越した先の団地は横浜の外れにあり、マムシが出るような深い山でした。機嫌が悪くない時の週末の母は(というか、夜から雲行きが怪しくなるのですが)春は必ず谷間の田んぼに連れていってくれました。食べられる草を摘んだり、花かんむりを編んだり、山菜を取ったり、イチゴのパックにカエルの卵を入れて持ち帰りました。母は虫や蛇などが苦手でしたが、私には積極的に触れ合わせようとしていました。私はカエルの卵も大好きでした。オタマジャクシに足が生えてくると母は怖がって、田んぼに返しに行くという謎な飼育をしながら毎年過ごしました。秋になるとカマキリの卵を何個も探して(私はカマキリも大好きでした)ベランダに置いておきました。或る日一斉にカマキリの赤ちゃんがベランダを歩いていて、母はものすごい悲鳴をあげて多分そのあとすごく怒られたような気がします。
季節が変わると、よみうりランドや向ヶ丘遊園や大船フラワーセンターまでお花を見に行きました。そういう日は朝早くからおにぎりを握ったり、おかずを作ったり、母は大忙しでした。
長屋の頃はエレクトーンを習っていたのですが、団地に移ってからはヤマハのスタンドピアノを買ってもらいました。誰から紹介されたのかはわかりませんが、遠くからとてもいい先生を見つけてきて、その先生からは厳しいけれど芯のある指導をしてもらいました。母は勉強や習い事にこだわりがあり、今出来る範囲で「最高の教育を」「最高の先生を」というポリシーでした。それはまるで常にいっぱいいっぱいまで弓を引いているようで、緩むことは滅多にありませんでした。
私の身につけるものもほとんどが母の手作りでした。スカート、ワンピース、セーター、カーディガン、ピアノの発表会のドレス、果ては下着(パンツ)に至るまで。その一つ一つにこだわりがあり、素敵なデザインを雑誌で見かけると、横浜(駅)の布地屋まで出掛けては似た生地を探していました。スカートはわざわざプリーツを作り、裾に刺繍を施していたのです。メリヤス生地で作るパンツにも沢山のお花の刺繍が付いていました。「ちゃんとしてあげたい」「可愛くしてあげたい」の想いが強すぎて、私は母のお人形のようでした。そして作ったものが似合うととても喜んで、どこかに連れていっては、私の写真を撮っていました。