その夜は妙な夜でした。昼間の言葉通りに夜の早い時間にM先生はやってきました。私の家は横浜のはずれにある数千世帯からなる大きな団地でした。鍵を開けておいてほしいと伝言したのは、人目につかないようそっと訪れたかったからなのでしょう。先生は母が用意しておいたビールを飲んでお風呂に入りました。今思えば、母は先生のことが本気で好きだったのだと思います。
母は生真面目な人で、お付き合いしたのは初めて好きになった父だけだったのです。それなのにあっけなく夫婦関係は壊れてしまったので、母は男性不信に陥っていました。テレビを見ても、歌手や俳優を指して「この人は浮気をした」だの「この人は浮いた話がないから信用できる」だの、そんなことばかり語るのでした。そんな母が明らかに嬉しそうにビールを冷やしていて、おまけに先生の吸うハイライトまで買ってあったのです。母は煙草を嗜みません。私は何かが違う空気に落ち着きませんでした。
その夜遅くに、三人で布団を並べて寝ることになりました。先生は私の布団に入り、まるで父親のように私を寝かしつけようとしていたのですが、私は不安が押し寄せて眠ることはできませんでした。とんとん叩かれるままにしていると、先生は私が寝てしまったと思ったようで、やがて母の布団の方へ移ってゆきました。それは思い出すたびに細胞がすべて振動するようなおそろしい出来事でした。ほどなく私はガタガタ震え出してしまいました。「トイレに行きたい」「我慢しなさい」「どうしてもトイレに行きたい」の問答が続き、いつまでも私は訴えたので、結局先生は私のトイレに付き合い(もちろんトイレになんて行きたくはなかったのです)、何かを察した先生はバツが悪そうな感じで学校の当直室へ帰ってゆきました。夜明けが近かったと思います。
翌日の日曜の午後、学校にいるM先生から電話がかかってきて、いつものように私は呼び出されました。運動会が近かったので校庭に白い線を引かなくてはならなくて「手伝って欲しい」とのことで、私は黙ってそれを手伝いました。もう以前のように先生に笑うことも出来ず、顔も見ることは出来なくなり、とても重苦しい時間でした。先生も私の扱いに困っていて、それよりもこのことを口外されたらどうしようと思っているようでした。
月曜日、先生の机まで呼ばれ「土曜日のことはどこまで覚えている?」と聞かれました。私は模範解答のように「何も覚えていません」とだけ答えました。
それからの私は、もう二度と先生にうちに来てもらっては困るので、作り話を母に伝えることにしました。M先生がいろんな母子家庭の家に泊り歩いているとか、最近頭がおかしくなって学校を休んでいるとか、教育委員会の若手の人が代理で学校に来ているとか、誰が聞いてもヘンテコな話を伝えていましたが、私の嘘の上手さもありましたし、母は単純な人でしたので、その話を信じてしまいました。母は「もう二度とうちに来てもらっちゃ困る」と言い出し、同時に、ひどく傷ついているようでした。それでも私は追い討ちをかけるように、先生の架空の問題行動の話を、卒業するまで毎日話し続けました。母が用意していた残りのハイライトは、タンスの奥深くに何年も仕舞われたままでした。
先生は来なくなったのですが、私はテレビのラブシーンを見れなくなってしまいました。うっかり間違って目にしてしまった時は、フラッシュバックに悩まされ、ある時は吐き、ある時は街中で突然気を失って倒れるようになりました。