2015/9/15
私の心に仕舞ってある昭和の風景を出来る限り記しておこうと決めました。何しろひたすら眺め続けてきたので、溢れるほどそれらを抱えています。景色、人の心の動き、音、匂い。ずっと私を支配して離さず、がんじがらめになっていました。たぶん今が荷物の下ろし場所と思うので、どんどん書いてしまおうと思います。
他の街もそうだったように、横浜もかつては暗い街でした。今はどこもかしこも照らされていますが、昔はそんなにたくさんの灯りはなかったのです。影になっている場所は、人も人の心も隠れられるような雰囲気がありました。母は二人暮らしになってから私のことをひどく不憫に思っていました。私はパパっ子だったからです。それで、休みの日(昔は土曜は毎週半日あったので、休みは日・祭だけ)は、だいたい毎週よこはま(横浜駅周辺)に行きました。よこはまは当時は、高島屋、オカダヤ、ステーションビル、スカイビルだけで、後はダイヤモンド地下街がありました。ダイヤモンド地下街には牛乳スタンドがあって、やたらと皆そこで飲むのです。もちろん私も母も飲みました。今で言うところのちょっとした安いカフェのようなものかなと思います。夜のお食事は、特別な日はステーションビルの大きな食堂か、オカダヤの不二家レストランか、高島屋の食堂でした。それらも楽しかったけれど、母はもっとラフなお店が好きでした。
ダイヤモンド地下街を奥に進むと、焼きそばだけのお店があって、よくそこへ行きました。具のほとんどない焼きたての焼きそばを楕円の銀のプレートにヘラでどさっと乗せて、一番上に青海苔と紅生姜をぱらっと乗せるのです。いまだに思い出せるほど美味しい焼きそばでした。向かい側には名古屋うどんのお店がありました。新婚時代を名古屋で過ごし、夫に再度裏切られた土地ですので、母は名古屋嫌いでしたが、なぜかきしめんと味噌煮込みうどんは大好きで、私を連れてよく食べに行きました。名古屋生まれの私にとってはソウルフードですので、もちろん大好きでした。外食好きの母でしたが、外で食べるのが疲れてしまった時は、崎陽軒のシウマイ弁当を買って帰りました。シウマイ弁当は横浜の人間が家に持ち帰って食べることが多いです。
当時の横浜はまだ海のエリアが造船所跡地のままだったので鉄錆臭くて、横浜駅は、潮風と鉄錆とシウマイ弁当の経木が混ざった匂いでした。