2023.11.12
三日間の「坐禅研修」が無事に終わった。初日は、曹洞宗大本山總持寺にて坐禅。2日目は武蔵野大学の紅雲台にて坐禅と講義。3日目は同じく大学にて講義とグループ発表と映画鑑賞と単位認定レポート記述。ハードだったあああああああああ。それでは自分のためのメモをここに記します。
まずは43年ぶりの母校。なんにも変わっていなかった。そもそもお寺というものは何百年も(国を超えると千年単位で)継承されてきたわけで、そのなかの43年なんてほんの一瞬なんだなと思った。来年は瑩山禅師の700回忌ということで境内は来年の行事に向けての工事や準備で賑やかだった(しかもこの日は瑩山禅師のお誕生日だった)。18才の時も精進料理をいただいたのだが作法などはほとんど記憶に残っていない。今回は五観の偈を唱えたあとひとつひとつのお椀と向き合いながら食材や調理などに思いを馳せていただくことができて嬉しかった(なんちゃって修行僧だけどそれでいいのだ)。味は最高!!きのこの炊き込みご飯、赤だしお味噌汁、お麩や根菜の煮物、椎茸やシシトウやかぼちゃやさつまいもの天ぷら、山椒のお漬物、きゅうりのお漬物、切り干し大根、里芋の煮物、胡麻豆腐。ほうじ茶も美味しかった。18才の私にはなにもかも渋すぎたしちんぷかんぷんだったろう。でも単なる年齢の話じゃなくて、未熟だった私がいろいろなことに気づけるようになったということか。43年もかかっちゃうのが情けないなー。午後の法話をしてくださったのはゲッペルト昭元老師。旧東ドイツ出身で大学院で宗教学や哲学を専攻したのち禅に惹かれて得度なさったそうだ。「ことばがわからなくても坐禅はできる」「悩み苦しみが起こった時にすぐに神仏にすがるのではなく、まずは自分で自分の悩みを図ること。自分で自分を観る。それが『観自在』である」とのお話をしていただいた。坐禅をしても余計なことばかりを考えてしまいますとの学生の質問には「鳥が鳴いていたり、工事の音が聞こえたら、あー鳥が鳴いてるな、工事の音が聞こえるな、とだけ思えば良い。それ以上は追いかけない。人間は常に、好き嫌い、善悪、是非、の判断をしている。鳥の声は好きだなとか、工事の音はいやだなーとか。そういう考えが起こったらそこで止める。考えを追いかけない。頭を空っぽにする練習です」ということだった。道場での坐禅についてはうまく表現することはできない。授業でみた高橋伴明監督の『禅』という映画が素晴らしかったので、興味のある方はぜひご覧になってください。ロケ地は曹洞宗のお寺だと思うのだが(たぶん総持寺や永平寺)初日に体験した空気感や聞こえてくる音そのもので感激し、お香の香りまで思い出せた。2日目に坐禅に使われるまんまるおざぶをいただいたので、これからは自宅で坐禅の時間を持ちたいと思う。以上です。なぐりがきなのでいずれ修正しまーす。
2023.11.12
某漫画に関すること、つまり過去の私に関するものが出版されるということで、一応原稿チェックはさせていただいたのだが、いざ表に出るとなると複雑な気持ちが拭えない。当時は面白くするためには良かれと思ってフィクションを交えつつ作品にしたのだが、根幹の部分で事実と違っていることに、やるせない気分になる。悔しい気持ちや悲しみはいずれスマートな形で昇華できればと思う。先月末にかつての姑(離婚した再婚相手の母)が脳梗塞で倒れて一時はどうなることかと思ったが、お見舞いに行くと、めちゃくちゃリハビリに励んだそうでしっかりと立っている。言語障害も無くなったので来週退院とのこと。私の顔を見ると嬉し泣きしていた。勉強の方は、今の時点でSが12、Aが6、Bが1。入学当初は全Sくらいの気持ちで臨んだが、そんなに優秀ではなかったな。でも落ち込むことなく頑張ろう。継続することが大切だ。
2023.11.6
仏教の思想を基にした大学なので他専攻でもいくつかの仏教関連の科目をとることができる。というわけで再来週は坐禅研修を受けに行ってくる。坐禅をする先は18才の時に逃げ出した大学(当時は女子大)。当時、入学早々に行われた一泊参禅会が思い描いていた大学生活と違いすぎて「辞めたい!」と思ったのだった。教職科目も図書館司書科目も中途で放り投げた罰当たりな私が43年経って再び同じ場所で坐禅するとは。山奥の昔話みたいなオチだ。18才の時は泊まりだったので、地下の秘仏の前をお参りするとか早朝に長い廊下を雑巾掛けするなど、様々なことを経験できた。そんな貴重な体験のなかで、いきがって夜中に大部屋でわざわざ煙草を吸っていたのは見渡す限りでは私くらいだったと思う。それに煙と香りでばれていたとも思う。しょーもない私である。心から反省して坐禅せねばならぬ。そんな罰当たり女でも、早朝に見た精進料理をつくるお坊さんたちの姿が美しかったのを覚えていて、何度も心の中でリピートしてきた。精進料理を一滴も残さぬようお漬物で器の中をこすって最後にお茶を入れて飲んだのも覚えている。その精進料理をつくっていた方たちは「典座」という大事な役職であることを教えてくださったのはアースデイで一緒になった曹洞宗の教団本部研究所の宇野全智さんで、3年前に開催していたオンラインでの会議で伺ったのだった。お話が面白いしなにより人柄が素晴らしくてつらい会議も楽しく乗り越えられた。「どの宗教も道のりが違うだけで目指しているところは一緒。優劣はない」というようなことを仰っていて、それがとても心に残っている。或る時「典座」と出会った時の道元のエピソードを話してくださったのだが、今回、坐禅研修にあたって事前に読んでおくほとんどの本の中にその場面が書かれていた。こんな風に人生の後半に回収していくのは幸せなのか不幸なのか。いや、そんなことを考えること自体、迷っているんだよなあ。
2023.11.5
勉強頑張ると足腰を痛める、ダラダラすると回復する。この繰り返しで参ってる。20代の終わりに結婚して、離婚したり再婚したり再び離婚したりするなかで3人の子どもたちにはその時々の精一杯で関わってきた。だけど、子育てのほかにも自分に出来ること、社会に役立つことがあるはずだと考え出し、飛びついたのが某学びだった。数年間真摯に向き合っていたのだが、いざスタッフとして関わると、教えとは似ても似つかぬご都合主義の連続で自分の中で整合性が取れず、失望した挙句ついに辞めてしまった。素敵な友人たちと過ごすことができたし得るものはたくさんあったのだけど、学び始めたのは40代の終わりだったから、あの時点でもっと自分に自信を持って別のことにチャレンジしてたらなあと何度も考えてしまう。私の人生は、さまざまなポイントで本当のことが隠されてしまう。「事実は違うのに」と思いつつなんとなくその場をおさめてきた。後悔してもいいことないとポジティブに捉え直して胸の中におさめてきた。でもさー、考え出すとムカムカして眠れなくなるんだよね。自分を大事にしたい。強い自分になりたい。