4歳で名古屋を離れてから、母と2人で横浜の長屋に移り住んだ。小さな四軒長屋。保育園ではネイティブ名古屋弁が災いして、友達のあいだですごく笑われた。それで私はだんだん喋らなくなってしまった。
名古屋時代の私は問題児で、近所の公園のブランコを独り占めしたり、地域の夏祭りの映画会を邪魔したり(映写機の前で手を出して影絵にした)、近所でも眉をひそめられる子どもだった。それでもそういう私を面白い面白いと持ち上げる父によって幸か不幸かのびのび育っていたのだ。
横浜に移ってからはガラリと様相が変わり、いつも正座で座ってなくちゃならなかった。寝る前は三つ指をついて「おやすみなさいませ」という。時代錯誤の武士の家みたいで、実際、母の先祖は相馬藩の武士だった。日本一貧しくつつましい藩だ。最悪だよ。私の気質に何ひとつ合わない暮らしが延々と続き、私はどんどんしょぼくれて、しかも、外で話すのさえ苦手になってしまったのだ。
内野先生は内野スマ子と言って、初音ヶ丘小学校の2年の時の担任の先生だ。私は仏向町の山のてっぺんに住んでいて、小学校は山の麓にあったのですごい急な坂を駆け下りて登校した。そして先生のおうちは、一本となりの道の途中にあったんだ。
そうそう、1年の時の私も問題児で、授業中座ってられなかったり、教室内をくるくる走り回ったりしていた。いまならそういう子どもがたくさんいるけれど、昭和40年代だからね。1年の担任は家庭訪問の時に私に手を焼いてることを伝えたものだから、正座生活はいっそう厳しくなったし、その頃からかなり叩かれ出したように思う。
話は戻るよ。
だけど私は生まれついてのしぶとい子なのでそんな暮らしでも元気に暮らしていた。私が育てるひまわりはめちゃくちゃ大きくなるし、蟻とは交流できるし(蟻たちと待ち合わせ時間を決めて砂糖と煮干しをあげる)近所では生き物が大好きな女の子として知られていた。
内野先生はとにかく優しい先生で、いつも私のいいところをたくさん見つけてくれた。人に話すのが苦手になった私のことも察してくれて、私が発表する番になると「ゆかちゃんも(先に答えた)●●君と同じ意見でいいかな?」とニコニコしながら言ってくれる。それがどんなに嬉しかったか。内野先生のおうちは私が帰る道筋ではないんだけど、わざと、先生んち経由で帰ったりしたんだ。
そんな先生だからもちろん他の生徒にも父兄にも大人気で、先生の机の上はいつも生徒が持ってきた花が飾られていた。大きなおうちの子は綺麗な花を持ってきて朝に渡していた。内野先生はいつものようにニコニコしながら花瓶に水を汲んで飾るんだよね。
私はそれが羨ましくてしょうがなかった。なぜなら私の家は長屋でしょう。私が持っていけるお花といえば、北側の玄関横のお便所の前に咲く菊の花しかなかったんだよ。しかもその菊ときたら、赤と黄色が混ざった変な色で、子ども心に怖い色だなーと思ってた。小菊でね。なんとも言えない地味さなの。それでもどうしても先生にあげたくて、母親に頼んで小菊を切ってもらって、ある日持っていったの。
そしたら運が悪くて、ちょうど大きくて綺麗な薔薇の花束を持ってきた子と重なっちゃった。恥ずかしいしどうしていいかわからないでいたら、先生がすごく嬉しそうに私の小菊を受けとってくれて。なぜか先生の机の上には薔薇じゃなくて、あの小菊が飾られたんだよね。晴れがましくて、いつもの変な菊がピカピカに見えたんだ。
あれから何十年も経つけど、あの色の小菊が見つからない。いまではめちゃくちゃ愛おしくて、飾りたいなーって思うんだけど、なぜかどこにもないんだよね。