2024.6.24
実験実習1-4レポートSD法(わかる方はあああれねと同情してください)で苦しんでる。データをまとめるのも凄まじかったけど、考察も凄まじい。若くなって大学に通っていて階段教室でこのレポート書いてる(しかも落第している)夢を見るくらいには疲弊している。ようやく考察と問題部分。ホントは結果ありきで組み立てていくものなんだろうけどなにしろもうへなちょこなんで。もう。もう。でもさ、考えてみたら、私の歳くらいでひとりで(アドバイスしてくれる人がいない状況で)実験レポート完成させようとしてるのはめちゃくちゃハードではなかろうか。友人はさー、お孫ちゃんのお世話とかさ、お花育てたりワンコのお散歩したりさ。なのに私は来る日も来る日も来る日もワードとエクセルにしがみついてレポート書き。
あっ、そうだった。好きでこの地獄道を歩いてるのだった。
2024.6.18
もうすぐ都知事選。中抜きとか裏金とか癒着とか天下りとか、いい加減にしろ。私がテレビ業界に居た頃からマスコミ関係者はネタ会議にD通社員がやってくると引くほど態度が変わりビビりまくっていたが、そういう虚しい仕組みや腐った構造は一日も早く滅びてほしい。むずかしいことは語らず、とくに深く考えず、危ない橋は渡らずに、おもしろおかしゅう生きていければそれでいいやって、ダサすぎるだろ。本当にいい加減にしろ。
2024.6.14
最近気がついたこと。そもそも地頭はさほど良くないので、コツコツがんばるしかない。勉強を続けるには、メンタルの強さが鍵になる(レポートが不合格で返されてもめげないとか体調不良でブランクあっても諦めないとか)。
2024.6.9
ああできたはず、こうできたはず、と考えるのは消耗するのでなるべくやりたくない。オープンな場所に記録して、あとはどうとでもなれ!と放置しておけば、心の傷はかさぶたになっていくんだと気づいた。いつまでも傷が生々しいのは隠すからである。自分のために、誰かのために。なんのためにもなってなかったんだよね。だからこうしてぐちゃぐちゃな乱文で書きつけてる。こんな風に足掻いたりせずにスッと寿命が尽きればそれが一番かっこいいと思い続けてきた。でもいまは違う。事実しか綴ってないから、どの方面に対してもこわくない。事実じゃないことがあるとしたら、受けとめ方の差異でコトの濃淡が違っているくらいだろう。
タロットを学んでそのことに長い期間費やすようになってしまったのは、元々私がその方面に興味があったからではない。産後、うつになってからの数年間、精神状態が安定しなかったのだが(その期間、ほぼ毎日、昼夜問わず自宅に無言電話がかかってきた)、引きこもっていたその時期に夫から60年代70年代の神秘主義の本や雑誌を何冊も渡されて読んでおり、見えない世界を不安定な心の拠り所としてしまったからだ。なかには非売のひどく怪しい本もあった。それまでの私はそういうジャンルに疎く、自己啓発本をたまに興味本位で読むくらいだった。不思議に思える出来事も生き物(花や鳥)の生態の不思議くらいの健全さだった。心が不安定な時にあんな本や雑誌を大量に渡すのはどういうつもりだったんだろう。夫の実家関係の行事に参加した直後から毎度頻繁に続く、日々の無言電話の方をなんとかするべきだったのに。いまさら「直感が優れていて」なんて雑誌に書かれているのを読むと心が折れる。ほかにも、結婚前に「何も知らないところが素晴らしい」「知識がないところがいい」とやたら褒めてもらったが、あれって何だったのか。ジェンダーバイアスを内面化していることにお互いに気がついていないところが事態をややこしくしている。タイムマシーンで飛んでって、自信のない若い私に、バカにされるな!ちゃんと自分の頭で考えろ!と気合いを入れに行きたい。
2024.6.3
いまだに夢や記憶でうなされることに関して「記録してほしい」と下の娘は言ってくれる。だけれどそれをすると上の娘は傷つくだろう。溝も生まれるかもしれない。実母が、娘が、夫が、世間が、作品が、ファンが。いつもいつもそれを考えて、書いたり消したりを繰り返した。なかには「自分の作品として昇華できていればよいのでは?」とわざわざアドバイスしてくれる人もいた。だけどもだ。心の中の、身体の中の、澱んだ滓はそうそう昇華できるものではない。できるだけきれいな言葉で、整理された文脈で、と試行錯誤を繰り返しているうちに記憶もかすんでくる。こんなむなしい繰り返しはもうやめよう。事実だけを並べていけばいい。時系列なんてどうでもいい。文章の下手さだってどうでもいい。ただ、自分のためだけにこの日記を書こう。「オンラインではやめなよ」とか、「誰も見ないプライベートな日記にしたら」とか、どうでもいい。クソどうでもいい。
33年前の5月30日は私が初めて母になった日だ。毎日30品目食べて、何時間もお散歩して、赤ちゃんに関することを勉強して、よいお母さんになることを夢見ていた。新婚の住まいは、夫と(当時浪人生だった)彼の下の妹と二人暮らししていた早稲田坂下のアパートをそのまま引き継いだ。婚約してからちょうど1年後のことで、婚約時は彼女がそこに住んでおり、10歳ほど年の離れた妹のことを夫はとても可愛がっていた。妹は故郷の優秀な大学に合格したため出ていったが、本人的には東京での大学生活を望んでいたので、とても残念そうだった。彼女が出ていったのが春、私が結婚したのが6月。まさに入れ替わりだった。こじんまりとした新築のコーポの室内は、一年前に夫と下の妹とで買い揃えたものだった。「家具などはなるべく引き継いでつかってほしい」と夫の母から告げられた。部屋の中は掃除されておらずかなり汚れていたが誰もがニコニコしていたので結婚とはそういうものかと言葉をのんだ。新婚生活の初日に最初に手を付けた作業は、ひどく汚れたトイレの中を掃除することだった。おそらく何か月もそのままだったろうぱんぱんに詰まった汚物入れを持ち上げ、使用済みのナプキンをゴミ袋の中に捨てた。床も髪の毛だらけだった。汚物入れはどうしても引き継いで使う気になれずおそるおそる捨てた。
使ってほしいと言われたダイニングテーブル、椅子、冷蔵庫、台所用品、カーテン。なにもかもが自分の趣味とは違っていて不安な気持ちにさせるものだった。新しい生活の始まりとは思えない澱んだ暮らしのスタート。実際、故郷で大学生になったはずの下の妹はあっというまに戻ってきて、タンスの引き出しや冷蔵庫のなかを無邪気に無断で片っ端から開けていった。捨ててしまったものがあると「捨てたんだね」と言われる。それでもへらへら笑うしかなかった。なぜかって、夫の母から「○○が泊まりにいくので面倒をみてほしい」と直々に頼まれ、そういう場では、必ず夫が楽しそうに笑っているからだった。
私が明らかに壊れていったのは赤ちゃんを生んで数日してからだった。「病院から○○さんに電話してお礼を言ってくれ」「○○さんに電話してくれ」と夫の母からのたくさんの伝言が電話番号付きで届いた。出産祝いをくれた夫の父方の仕事関係の人や地元のお世話になっている人たちへのお礼だった。ほかの新米ママたちが休む時間に私は何度もお礼の電話をかけた。入院中でも気が休まらず徐々に眠れなくなってついには乳腺炎になってしまった。帰宅してからは40℃台の熱が続き、両胸は石のように腫れあがった。赤ちゃんにおっぱいをあげるというのが私の切な願いだったが眠剤と精神安定剤を飲むことによりドクターストップがかかった。つまづいたと思って涙が出た。実母に「夫の身内と会うと不安になるからしばらく会わないようにしてほしい」と頼んでそこで初めて結婚前から続いていた事柄を話した。看護婦である実母はモードが変わっていきなりテキパキと事を進めて私と赤ちゃんと夫と実母だけしか会えないようにしてくれた。が、夫の母は、数日後に事前の連絡もなくきれいな御祝儀袋に入った出産祝いを持っていきなりやってきた。中身はびりびりにねじって破った一万円札が束で入っていた。その夜から私は極端におびえて眠れなくなった。実母に問われると「赤ちゃんがお義母さんに殺される」と泣いて答えた。「孫を殺すわけはない」「絶対に殺しはしない」と何度も説得されるが、姑に殺されると本気で思っていた。
めちゃくちゃな文だが、表に出したことに意味がある。文章の崩れはすこしずつ直します。