来月から春までゆるゆる期間です。本来私はかなりゆるっとした気質なんですが、何十年も「それじゃいかん!」って思い込んでるのですね。だから時々電池が切れて、原因不明のお熱や疲労でダウンするのかもしれません。
なんとなく思い出したことを書こうと思います。
1992年から1996年くらいまで、私は時々東南アジアや東アジアに旅行していました。私が行きたかったのではなく、当時の夫がアジアのご飯や文化が大好きだったからです。そんな訳で私が生まれて初めて行った海外旅行先はバリ島で、その後も香港やバンコクやシンガポールなどに子連れで行きました。
アジアは人懐こい文化です。ですから赤ん坊を抱えた私はよく現地の人に声をかけられたり、助けてもらいました。なぜか私はどこへ行っても日本人と思われることが少なくて、道でぶらぶらしてる現地のおじいさんに「ロンボク島から(出稼ぎに)来たのか?」と聞かれて、どこよ〜それ!?なんてこともありました。
香港の九龍地域で夜遅くまで飲んでいた時(もちろん夫が)のことです。オーダーしたお酒がお店になくて「残念」って時に、隣のテーブルで談笑していた一人が流暢な日本語で近づいてきて「探して来ますよ」と言って、素早く外から買ってきてくださったのです。夫はベロンベロンに酔っていて、飲みたかったお酒が手に入った嬉しさのあまり「良かったら一杯どうぞ!」と薦めると、彼はこちらのテーブルに加わってくれたのです。
彼は、なぜ自分が日本語が達者なのかを、名刺を差し出しながら話してくれました。以前一橋大学で学んでいたこと、その後に日本の大学院にも行ったこと(どこの大学院かは忘れてしまいました)。今、大連の開発の仕事をしていることなど。そして急にキリッとした挑戦的な眼差しで「今はまだ中国は遅れていますが、あと数年経たないうちに、日本は私たちに抜かされますよ」と言ってきたのです。そして隣のテーブルを指しながら、彼らもその仲間です。時々こうしてミーティングしています。やることがいっぱいで毎日とても忙しいけれど、やりがいがあります。と話してくれました。そして現在の大連の様子を見て欲しいと、大きな橋がどかーんと出来ているだけの、ものすごく広々した土地が写った写真を何枚も見せてくれました。
私は、ベロンベロンに酔っ払ってお酒を買ってきてもらったり赤ん坊を連れて夜遅くまでお店にいる私たち日本人と、国の開発に燃えている中国人、という両者のあまりの違いに恐縮してしまいました。その時同席していた私の母は「あんなふつうのお兄さんみたいな人が国の仕事をしてる訳ない。嘘に決まっている」と全く信じなかったのですが、私にとっては信じられない要素など何一つなかったのです。
その後、シンガポールやバンコクの新しいファッションビル(中央が空洞でお店が螺旋のように取り囲んでいる)や、バンコクの高速道路を作る様子などを見るたびに、「大変なことになってる」と感じました。当時は経済格差を利用して呑気に旅行している日本人も多く、「これから伸びてやる!」と意気込んでいるアジアの人たちとの温度差がすごかったのです。案の定、今はすっかり追い越されて日本は落ちぶれるばかりです。
けれどもそれで良かったのかもしれません。島国気質でゆる〜い国民性の日本人が、戦後必死で稼いでアジアの文化も引っ張ってきましたが、そんな無理は長く続くものじゃありません。落ちぶれた今こそ、日本人らしいなにかを見つける時じゃないのかなあとぼんやりと考えています。