私にとって一番大切なカード「2 of Cups」について、今までになかった視点が生まれています。このカードに出会ってから丸8年。そのイメージに出会ってからは、、、長すぎて書きたくない。ずっとずっと私を悩ませてきたものについて、空から光が射し込んできたようにヒントが降ってきました。少しずつ足しながら、とりとめなく書きます。
時間軸もめちゃくちゃだし、文章も整えません。韻も踏みません。(踏んだことありませんが)
今は2 of Cupsと言ってますが、そういうイメージが出来上がったのは多分中学生の時でした。私はこの世にポツンと生まれ落ちたように感じる時があって、時々とても寂しくなって、この感覚を分かち合える人を探してきました。なぜ探したかと言うと、同じように感じている反対側の人が何処かにいると信じていたからです。この先のことは、インターネットには再度書いてきました。さまざまな角度から、馬鹿みたいに同じことを記しています。削除したものもありますが、大抵は何処かに残っています。
それはずっと一貫したイメージでした。夢の中で見たり、空想する時に出てくるものです。或る時は二十歳の時に見た夢の「私の隣で、浅い川の水をすくう人」と書いて、或る時は「手を繋げばすぐにわかる人」と書きました。また或る時は「映画の、音楽が流れる場面について分かち合える人」と書きました。それから、向こうも探しているはずだと思い込んで、出会うたびに恋人に「私のこと探してた?」と聞くこともありました。おかしな話ですが。
私の恋愛や結婚は、いつも何処かがずれていて、精一杯相手に心を傾けるのですが、そうすればするほど距離が開いてゆくのです。相手が悪いのではないのです。共に生きているはずなのに、独りであることを痛感する数十年でした。私は反対側のその人に出会えれば幸せになると信じていました。先程書いたように、寂しく思う日々が長かったのです。だからそういうすべてが報われて、空で天使がラッパを吹くように、寂しさが消えるのだと信じていました。
けれどもそうではないかもと、、、気づいたのです。なによりもまず、私がもう女の子ではないから。そのことを考えるたびに深く沈みます。年を重ねるのは素敵なことのはずなのに、自分を情けなく思ってしまうのです。私の心の中は10代で止まっているけれど、現実の私は遥か彼方まで進んでしまったことを理解して、扉を閉めることにしました。自分のことを「痛々しいな」と思いました。あまりにも悲しかったので、かえって静かに閉めることが出来ました。この物語はおしまいにして、淡々と日々を過ごそうと決めたのです。悲しくならないし、傷もつかないし、それはとても良い方法でした。
けれども本当は違ったのです。「ちゃんと嘆き悲しむこと」「それでも覚悟すること」「扉を閉めないこと」が2 of Cupsかもしれないと思い始めています。
(2016/9/14)