『元気が出るテレビ』はパイロット版から関わっていた。同局の同枠の『久米宏のTVスクランブル』が終わって、次の仕事だった。同じ枠とはいえ、正反対の雰囲気を持つ制作会社に関わるのは大変です。なにからなにまで違っていて、それまでの一年間自分が必死で学んできたことはひとつも役に立たなそうだった。
『元気が出るテレビ』での私の仕事は、細かいネタ集めと取材と人探しだった。人探しは得意だったけれど、時には翌々日のロケまでネタに合わせた人を100人くらい集めなきゃならないこともあって、ネットもない時代にとてもじゃないけど探せるはずはなく、しかも本来それは放送作家の仕事ではなかった。それまで関わっていたオフィス・トゥーワンは非常に大人な会社で、理論的に物事を進めるのに対して、当時のIVS、特に元気がでるチームは、まるで学生の文化祭実行委員のようだった。演出のIさんのパワーは凄まじく、キャラも凄まじく、以前はVANの社員だったこともあっていつもお洒落。若いADさんのほとんどがIさんに憧れているので、さながらI帝国のような様相だった。Iさんはみんなが見渡せる窓際の席から楽しそうにゲラゲラ笑いながら「◎◎~、ちょっとこっちこーーい!!」と叫び、時には「△△、ばかやろー、ふさけんなよ!!」とその辺のものを蹴っ飛ばしながら怒鳴る。やがて、Iさんに影響されて若いみんなもそうなっていき、感情を元に構成された大きな空間がそこにはあった。
その後、新人ディレクターとして局の社員のTさんがやってきてからはまたひとつ違う空間が生まれた。Tさんはいつでも静かに穏やかにニコニコとIさんの話を聞いているのだけど、他の人とは違うクールな一面を持っていた。(Tさんはのちに、ご自分の番組でダースベーダーの曲と共に登場しました)
Iさんのアイディアは土台無理なことが多かったので、それを現実で探すのは至難の技だった。というより、そんな人いるわきゃない、そんなことあるわきゃない、のがほとんどだった。放送作家というものは幾つもの番組を掛け持ちして動き回るものなのだけど、『元気』に関してはほぼ一日中拘束されてしまう。というよりも仕事が捗らず、午前中に始めても終電までかかることばかりだった。「会議であがったような人や建物を探せ」「いなきゃ装え」「なきゃ建てろ」というポリシーで、エネルギッシュに巨大な仮想空間がつくられていった。「地味でもコツコツと本当のことを伝える」という番組づくりのオフィス・トゥーワンに関わった私には、それらのすべてがつらかった。
私はどんどん消耗していき、元気がなくなり、自分のやりたいことも面白いと思うこともわからなくなっていった。聞いたこともない映画を「知ってます」と言ってみたり、観てもない演劇を「面白かった」と言ってみたり、つまらない安っぽい塊に成り下がっていった。
私が辞めたあとの番組は化け物のように大きくなり、いろんな文化を生み出し始めた。一方その頃の私は人生で最大の貧乏時代を送っていて、テレビも買えない生活をしていたので、その文化に触れることはなかった。いつしか自分の記憶にも蓋をしてしまった。
最近になって、江ノ島を思う時に重なって思い出す風景がある。真っ白く塗られたデッキのある、番組で作った小さな海の家。仕事が終わったあと夜中に四ッ谷から車を乗り合わせて皆で行った海の家。「楽しかったな」と思うのでなく、「苦しかったな」と真っ先に思うのだから、相当に辛かったんだろう。それでもやっぱり私の大事な記憶なんだって今になって思っている。
黒歴史って野良時代のことじゃないんだね。見栄を張ったり、ごまかしたり、奢ったり、自分を偽ったり。そういう時代のことが黒歴史なんだって、やっとわかったんだよ、私。
2014/10/10