2013/10/28
10代の終わり頃に住んでいた善光寺裏の、お風呂無しでトイレは集合玄関の横という古いアパートの数軒先には、オープンしたばかりの焼き鳥屋さんがあった。店主はリッキーという呼び名で、テカテカのリーゼント頭。奥さんのりっちゃんと二人で営んでいた。リッキーとりっちゃんで『R&R』という店名。「ロックンロールと掛かってるっしょ?」と、リッキーは恥ずかしそうにちょっと自嘲気味に笑いながら教えてくれた。年中煙草をくわえていて、やたらポーズを気にする人で、背は小さく、顔もそれほど整ってないのに、他人を惹きつける不思議なオーラがあった。長野県上田市の出身で、上田の方言をわざと丸出しにして話すところも、いかにもなリッキーらしさだった。若い頃はロカビリーの歌手だったという彼は、地元の音楽仲間の中心的存在のようで、お店には連夜、街の老舗のライヴハウスのスタッフやバンド仲間達が集っていた。横浜からふらっとやってきて、貧しい暮らしをしている私を面白がってくれて「横浜のゆかちゃん」といって色んな人に紹介してくれるものだから、知らない人からも「あの横浜の子でしょ?」と言われていた。
リッキーと一緒によくライヴしていたのは『メンフィス・スリッカーズ』というバンドで、メンバーは私より12~15才上のビートルズ世代だった。メンフィスのメンバーは(その奥さんも含めて)特に可愛がって下さって、喫茶店や甘味屋などのバイトを転々とする私がどうにか生きてゆけたのは、みんなが御馳走してくれてたからだなあと思う。その後『R&R』は個人的な事情によって閉めることになり、メンフィスのメンバーのデイブと奥さん(当時は恋人)のボッチが、居抜きで引き継ぐことになった。店名はそのまんまの『焼き鳥デイブ』。
ボッチは私にとっての姉のような存在。身体が細くて、ヒップボーンのジーンズが似合って、腰まで長く伸びた髪はサラサラで、外国のヒッピーの女の子みたいだった。実際「最近の若者とかいう番組に勝手に撮られたよ。後ろ姿映しやがってさァ」と言っていた。へんな場面に良く遭遇する人で「今さァ、駅前の〇〇(喫茶店)に武田鉄矢がいたよ。若い女の子2人、向かいに座らせて、人生すげー語ってたよ」などと淡々と自然に話すのだった。
デイブとボッチが営むようになってからは、更に音楽関係者の割合が高くなった。というよりも、長野市の情報発信の拠点のひとつになっていて、タウン誌の編集者、古着屋の店主、中古レコード屋の店主etc… 毎日ほとんど夜中まで、時には朝まで、彼らはむずかしい話を語り続け、音を流し続けた。私は毎日カウンターの端っこに置いてもらって、たまにお皿を片付けたり、レコードを取り替えたりしながら、お店で食事をとってから自分のアパートに戻るのだった。たぶん、最初の一杯だけはお金を払っていたんだったと思う。いや、それすらも果たして毎回払っていたのか怪しいものだ。メンフィスのメンバーが来た時は、ビールまでご馳走してもらった。
どれほどたくさんの曲を聴き続けていたのかわからないけれど、覚えているのは、スネークマンショーのカセットテープと、Cheap Thrillsのレコードだけだ。あとは身体の中に入り込んでしまって、音を聴くまではミュージシャンの名前もアルバム名も全く思い出せない。思い出せないけれども、あの時代があったからこそ、私の魂には、深く『音』が刻まれているのだろう。