2009/3/31
中学1年の時から3年間、一人のおじいさんと文通していました。おじいさんの名前は中村胖(ゆたか)さん。或る雑誌の読書欄に、おじいさんがご自分の詩を投稿していたのです。その詩があまりにも素敵だったので、感激した私は早速お手紙を書きました。当時の雑誌は、投稿者の名前も住所もそのまま載っていたのです。私は、いかにおじいさんの詩が素晴らしいか、私の心に響いたかを、便箋にびっしりと綴りました。自己紹介と自分の詩も付け加えました。
すぐにおじいさんの返事が届きました。そこには美しい字で、喜びの言葉が書かれてあり、茶目っけたっぷりの楽しい手紙でした。それから二人の長~い文通が始まりました。
「詩人なのですか?」という私の問いには、「詩は下手の横好き、本業は冶金です」と。また「あなたの手紙は面白くて、ボクはさんべん読みました。さんべん読ませる由香ちゃんバンザイ!」とも書いてありました。私は、友人のこと、片思いの先輩のこと、見かけた風景、季節の草花のことなどをとりとめなく綴りました。便箋に7~8枚になることもしばしばありました。おじいさんも負けじと、たくさんの詩と、たくさんの言葉を届けてくれました。
その後、おじいさんは雑誌の名物じいさんとなり、読書欄には「タンポポじいさんの詩のコーナー」というものができました。ファンレターもたくさん掲載されていました。おじいさんは忙しくなり、私も少しずつ大人になり、お互いの手紙の回数が減ってきた或る日、おじいさんは突然亡くなってしまいました。心筋梗塞だったそうです。ご家族からの「長い間お世話になりました」という手紙と、自分の死を予感していたのか「天国からの手紙」という、おじいさんの字で書かれた一枚の印刷された紙が届きました。おじいさんの庭で育てていた「風船かずら」の可愛い実も同封されていました。私の言葉を、私の感受性を、丸ごと受けとめて、丸ごと面白がってくれた、大事な大事な友人は突然消えてしまったのでした。
おじいさんのことをすっかり思い出さなくなった数年後、御家族から一冊の本が届きました。それは、おじいさんの遺稿集でした。昭和22年に出した処女詩集に加えて、タンポポじいさん時代の新たな詩が収めてありました。序文には、堀口大學氏の言葉が載っていました。おじいさんは、堀口大學氏のお弟子さんだったのです。
私は、おじいさんの詩をほめたり詩作を励ましていた自分が恥ずかしくて恥ずかしくて、遺稿集を読めませんでした。向き合うことができなくて箱の中にしまい込んで、しばらくの間、そうっと封印してしまいました。
本当に照れ屋なタンポポじいさん!!今思えば、下手な横好きくらいでは、あれほど詩を愛せないよねぇ。美しい言葉を綴れないよねぇ。ようやく気づいた私です。
懐かしさとたくさんの感謝をこめて、これから少しずつ、タンポポじいさんの詩を紹介していきたいと思います。