2015年09月11日
昨日、突然気づいたというか思い出したことがありました。私は音楽に携わる方とたくさん出会ってきたと以前に書きましたが、同じように、映像に関わる方にもたくさん出会ってきました。そのことについて書こうと思います。
一番最初は三島のお姉さんのご主人です。「三島のお姉さん」というのは、静岡県の三島市のお寺が実家の方で、知り合った時はすでに結婚していて横浜の屏風ヶ浦に住んでいました(私は二十歳でした)。私達は新しく開設する子供英語塾の勧誘のバイト先で知り合ったのですが、意気投合して色々打ち明け合ってるうちに、ご主人が京都の出身ということを知りました。『赤鬼』というラーメン屋さんを営んでいて、初めてお店に行った時には、すり鉢のざっくりした器に入った味噌ラーメンを作ってくれたのです。その日を境にお姉さんと急速に仲良くなり、2人の可愛い娘さんと暮らす古い一軒家に時々泊まりに行くようになりました。
ご主人は京都の蛸薬師の出身で「ワシは蛸薬師で生まれて育ったから」と何かにつけて言うのですが、「たこやくし」で生まれて育ったことがどうしてそんなに特別なのか、私にはわかりませんでした。そのうちにご主人は、若い頃は太秦で働いていて、井上梅次監督という人のもとで助監督をしていたと教えてくれました。その後上京して、映画関係の仲間たちと共に赤坂にシナリオの学校を開いたのです。一方お姉さんは三島から上京して短大を出た後に、シナリオ学校に通い、ご主人に見染められたのだそうです(お姉さんはとても綺麗な人です)。そうそうたる脚本家がそこから輩出されたのですが、色々な事情によって閉じることになったそうです。
私は適当に書きなぐったものや雑誌に投稿したものがたくさんあり、お姉さん夫婦はそれをとても面白がってくれました。ご主人は映画やシナリオは過去の話と封印していたようですが、私のために太秦時代の台本を押入れの奥から探し出してくれて、私に何冊かプレゼントしてくださいました。
その後、私は六本木にある放送作家の学校に通いました。そこは麻布警察の裏路地に面する古い小さなビルの中にぽつんとありました。斜め向かいは勝新太郎さんの勝プロで、その建物を眺めながら通ったのを覚えています。横浜から通うのが大変だったことや、何より長い脚本を書ける実力がないことに気づいた私は、途中でやめてしまい、ちょうどその頃からお姉さんと会う回数も減ってゆきました。
その時に中間制作で書いた200頁ほどのシナリオをずっと大事にとっていたのですが、一昨年衝動的に捨ててしまいました。読み返さなかったのですが、タイトルは『海を届けにきた人』です。こうして書いてるだけでも恥ずかしくて寝込みそうになってしまいます。